野球塾

野球技術向上に役立ちそうな名言・理論・行動をまとめてみました。

野村克也が考える「捕手」とは

最近は力一杯投げて力一杯打つことが「力と力の勝負」であると、選手も監督も、ファンも信じて疑っていないように感じる。

そこにあるのは単なる打ち損じ、投げ損じの結果だ。

こんなただ投げて打って走ってというものは野球ではない。

 

野球には「」がある。

一球投げて休憩、一球投げて休憩。

この「間」は何のためにあるのか。考え、そなえるためにある。」のだ。

 

野球は「頭のスポーツ」なのである。

選手の能力だけでは勝敗は決しない。

一球ごとに生じる「間」を使い、刻々と変化する状況を見極めて最善の作戦を考える。

結果、弱者が強者を倒す意外性が生まれるから面白いのだ。

そこに野球というスポーツの醍醐味がある。

 

その中心を担うのが、監督の分身であるキャッチャーなのである。

私は「キャッチャーは脚本家」であると思っている。

キャッチャーがサインを出し、それに従ってピッチャーが球を投げ選手が動く。

試合という「舞台」は、キャッチャーの書いた「脚本」で決まるからだ。

 

映画界にはこんな名言があるという。

「いい脚本からダメな映画が生まれることはあっても、ダメな脚本からいい映画が生まれることは絶対にない」

 

野球も同じだ。

キャッチャーが良い脚本を書けなければ、名勝負という良い“作品”は生まれない。

たとえ大谷翔平という“名優”がいても、活かすことはできない。

プロ野球のレベルが下がっているのも無理はないというわけだ。

 

かつては森昌彦(現・祇晶)や手前味噌ながら私、古田(敦也)や谷繁(元信)など、時代ごとに名キャッチャーと呼ばれる選手がいたものだが、最近は見当たらない。

なぜ、名キャッチャーはいなくなってしまったのだろうか。

 

そもそも最近は、キャッチャーになりたいという子供が少ない。

だからキャッチャーが育たない。

私の幼少時代、1番人気は今と同じくピッチャーだったが、2番は実はキャッチャーだった。

プロテクターをつけるのが格好良かったからだ。

しかし今の子供たちに訊くと、「立ったり座ったりがしんどいから」イヤだという。

子供の頃から楽することを考えているのだから、なんとも悲しい話だ。

そして、キャッチャーとは何かを教えられる指導者がいないことも大きい。

キャッチャーは専門職であり、経験者でないと教えられない。

私はヤクルト時代、1年間フルに古田をベンチで私の横に座らせて勉強させた。

彼は元々キャッチングとスローイングが良く、頭脳明晰だったから1年でモノになったが、例外だ。

本来は、経験者がつきっきりで教えても何年もかかる。

にもかかわらず、最近はキャッチャー経験者の監督が少ない。

特にセ・リーグは外野出身の監督ばかりだ。

私には「外野出身者に名監督なし」という持論がある。

外野は試合中に考えるのは守備位置くらいで、頭を使わない。

現役時代、そんな過ごし方をした監督に複雑なサインプレーはもちろん、キャッチャーが好リードをしているかどうかなどわかるはずない。

抑えればいいリード、打たれれば悪いリードとすべて結果論で判断する。

そもそもキャッチャーの重要性を理解していないのだ。

私はその重要性を知った時、野球恐怖症になったことがある。

プロ4年目のことだ。

自分は指ひとつで試合を左右する立場であることに気付き、根拠のないサインを出すというのがいかに問題であるかを痛感、怖くてサインが出せなくなったのだ。

「キャッチャーは守りでは監督以上のことをしているのでは」と恐ろしくなったのである。

バッターの長所短所、カウント、打者心理、投手心理。

1球ごとに状況が変わる中でサインを決める。

しかもそれが試合をも決める。

それだけに責任は重大だ。

だがもちろん、やりがいも大いにある。

成功した時の達成感や喜びは何物にも代えがたい。

だから私は、生まれ変わってもキャッチャーをやりたいと思っている。

よく野球は「筋書きのないドラマ」といわれる。

やはりドラマには脚本家が必要だ。

キャッチャーは脚本家であり、いい脚本からは野球の本質が見えてくる。