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明徳義塾・馬淵史郎監督が経験してきた「甲子園」

甲子園の宿舎宛てに、妻からの手紙が届いた。

封を切ると、中にはカミソリが入っていた。

そして「これで首切って死ね」と書かれている。

それは妻の名を騙(かた)った脅迫状だった。

「恐ろしいのぉ…」

1992年の夏、明徳義塾監督・馬淵史郎は、超高校球児だった松井秀喜を相手に「5連続敬遠」を敢行して、「高校野球界のデストロイヤー」となっていた。

「もし松井君と勝負していたら、打たれていたと思います。

あの時は、高校生の試合に一人だけプロのバッターが混じっていたような状況でしたから。

だから敬遠して、次の打者で勝負したんです。

ビートたけしさんが言ってましたよ。

バレーでもテニスでも相手の得意なところにサーブを打つ人はいない、弱いところに打って勝負する。

それは勝負の世界では『逃げ』ではないのです。」

 

宿舎には、さらに電話がかかってきた。

「ピストルで撃ったる」

当時、馬淵監督はまだ2年目の新米監督。

もっとビビったのは旅館のオヤジ。

甲子園警察に電話を入れて相談したら、翌日の練習場には装甲車が2台派遣されてきた。

「高校野球とはスゴイもんやなぁ」

 

それから6年後、馬淵監督率いる明徳義塾は甲子園、準決勝にまで駒をすすめる。

対するは横浜高校。

試合は終盤までずっと明徳優位に進み、9回まで6点差をつけて勝っていた。

当時の横浜高校には怪物・松坂大輔がいたが、この日の彼はマウンド上ではなくレフトを守っていた。

というのも前日のPL戦、松坂は延長17回を250球も投げていたからだ。

明徳の勝ちが半ば決まったかと思われた9回裏、横浜高校はまさかの猛打をみせる。

6 - 6 と同点に追いつき、ツーアウトなおも満塁。

しかし次のバッターの打った球はフラフラとセカンドに上がり、横浜高校、万事休すかと思われた。

ところが明徳は、ツーアウトにも関わらず前進守備を敷いたままだった。

そして運命の打球は、前かがりになっていたセカンドの頭上を辛うじて越えていった。

それがサヨナラヒットとなり、明徳はまさかの大逆転負けを喫してしまう。

のちに松坂大輔は驚いたように、こう語っている。

「セカンドがジャンプしたのに、ギリギリ届かなくてポテンと落ちた。

普通の守備位置だったら絶対、捕れてます。

経験豊富な馬淵監督でも、前進守備を戻すのを忘れたのかも。」

 

真紅の優勝旗を手にするのは、14回目の挑戦となった2002年の夏。

「僕は初めて優勝した2002年、智弁和歌山と決勝で当たるという朝、試合の前にね、『今日は勝てるんじゃないかな』と一つだけ思ったことがあったんですよ。

何かと言うとね、決勝戦の前って、取材が終わるのが夜の9時半くらいになるでしょう。

明日が試合だというのに。

あれは選手も大変です。

だから僕はあの日、時間が時間なので『明日はゆっくり寝てええぞ。朝9時に近くの公園で軽いランニングやろうか』と選手に伝えていたんですよ。

でも僕は夜ほとんど寝られなくてね、24時間営業の喫茶店に行ったりして、8時半くらいに公園に行ったんです。

そうしたらね、もう選手が全員、先にジョギングしていた。

みんな大汗をかいてね。

素振りをしてたヤツもいました。

『今日は男になれるかもわからん』と思っていたら、主将の森岡良介がね、『監督、今日は男にします』と言うわけですよ。

阿吽の呼吸というか。

僕はあっち向いて涙がポロっと出ましたよ。」

 

大人が演出できるものではないんです。

大人が作り上げたものじゃないから感動するんですよね。

ギリギリのところで自然に発生したものは強い。」

 

「『お前らに任せた』と思えるときは本当に嬉しい。

2002年に、まぐれの優勝だったかもしれませんけど、男に生まれて良かった、明日死んでもいいと本当に思いました。」